ジャニー喜多川と加藤シゲアキとアイドル論
7月9日。今年もまたこの日に1冊の本を手に取る。
「できることならスティードで」Trip13 浄土 〜著 加藤シゲアキ〜
SNSに溢れる #ジャニーさんありがとう のタグを見るとどうしても読みたくなる。
私は前の加藤シゲアキは良く知らないが、それでもあまりジャニー喜多川の話しを自分からするような人ではない印象なので、意外な気もした。
作者はどう思っているかは知らないが、彼もまたジャニー喜多川に愛された子どもだと知ることができたのが嬉しかった。
でもそのすれ違いに彼が申し訳なく苦しんでいる様がとても胸がキュッとなって苦しくなる。
このエッセイの中で加藤はある物語ができる現場に居合わせた事を話してくれている。
「DREAM BOYS」
幾度となく再演され、それこそ多くのジャニーズの人達が演じてきた舞台。
今年もまた菊池風磨と田中樹で再演されることを先日知った。
私はこの舞台を観劇したことはないが映像で見たことがあって、もう何年も前で内容も所どころしか覚えていない。その時はカズヤと皮肉なことに今はジャニーズにいないユウヤが板の上に立っていた。煌びやかな世界というよりは男の世界や家族を描き出しているところが「SHOCK」から続くジャニーズイズムのようなものを彷彿させる。そんな舞台だった。
子どもだった加藤に突如「テンポ良く」「饒舌に」舞台のSTORYを語り始める喜多川氏に、物語に集中できるように「ぎゅっと瞼を閉じて聞いて」いた成亮少年。
加藤は「自分にはそんな長い戯曲を事細かに語れることはできない」と語っていたが、私はこの物語が加藤成亮という少年を通して語りながら完成された物語ではなかったかと、このエッセイを読んだ時に感じた。加藤成亮がフィルターになってそれを喜多川氏が見ているような……
それは私だけの感じ方だったかもしれない。
人って妄想であったり空想であったりアイディアであったりが無数に脳内に張り巡っていて、それが浮かんでは消えてまた現れては消えてと形にはならないのような気がする。
重い腰を上げて「さてこの物語を形にしてみますか」なんてそうそう人はできない。
きっと喜多川氏もそうだったのだろう。
彼は試しにこの少年に話してみたら物語が完成するんじゃないかなんて考えることもなく、道すがらの退屈しのぎに隣にいる少年に話し始めていたら散りばめられていたアイデアの欠片が集約して物語になっていった。のではないか、そう思うのだ。
どうしても「物語を想起させてしまう人」という人はいると思う。加藤シゲアキはそういう人だと思う。少なくとも私はそう思っているしそれが故に私は彼が好きなのだ。
「物語を創る人」「物語の中に佇む人」「物語を想起させる人」加藤シゲアキにはいつも「物語」が付き纏う。それでいいと思うし、そうであって欲しいと願う。
煌びやかなアイドルというよりも星屑が舞うような切なさと美しさと儚さがあり感情を揺さぶられるアイドル。そういうタイプなんだと感じていてそれがまた「物語」を産み出して行く。
彼はDREAM BOYSの「シゲアキ」にはならなかった。だけどそこから多くの「誰か」になり多くの「誰か」を産み出した。加藤シゲアキ自身が様々なものを通して多くのエンターティメントを産み出している。ある意味彼も「エンターティメントの申し子」であり、ジャニー喜多川の子どもなのだ。
ジャニー喜多川が2019年の7月9日に逝った。加藤シゲアキが言って欲しかった「よかったよ」という言葉を言わずに。シゲアキは小6の成亮少年に勝てないままエンターティメントの「物語」の世界に居る。「よかった」と言われなかった呪縛に囚われながら。
ジャニーさんありがとう。物語に居続ける加藤シゲアキを産み出してくれて。そして彼がその世界に居る理由を作ってくれて。